やまなみ大学のあゆみ 第36回~


第38回 2019年 8月 やまなみ大学

第1講 8月2日(金)15時

信濃町総合会館

 

信州が海だったころ

ナウマンゾウ博物館学芸員  関 めぐみ

 

現在は海なし県である長野県一帯の地域に海の底だった時代がありました。日本アルプスを有する山岳地域になるまでにはダイナミックな大地の動きがあり、日本列島や日本海の生い立ちとも密接に関わっています。

 

日本列島はプレート境界に位置しており、太平洋プレート、フィリピン海プレートと呼ばれる海洋プレートと、ユーラシアプレート、北米プレートと呼ばれる大陸プレートの4つのプレートが存在しています。海洋プレートが大陸プレートに沈み込む場所は海溝やトラフと呼ばれ、6,000m以上の深さになることがあります。プレートの沈み込みに伴って発生するひずみがプレート型地震の原因となります。2011年3月に発生した東北地方太平洋沖地震はこのタイプの地震です。プレートは延々と沈み込み続けるのではなく、ある深さまで沈み込むと溶けて、マグマとなり上昇します。マグマが地上に達すると噴火して火山を形成します。そのため、海溝やトラフと並行する内陸側に火山フロントと呼ばれる火山列を作ります。日本列島に地震や火山が多いのはこのような変動帯にあるためです。

 

日本列島はいつごろできたのでしょうか。その手がかりが地層に残されています。日本列島はかつてユーラシア大陸の一部でした。約2,000万年前にユーラシア大陸の東縁から分離をはじめます。およそ1,500万年前には現在の位置まで移動し、日本列島の原型ができました。この時、東北日本と西南日本はそれぞれ異なる動きで分離したと考えられており、東北日本と西南日本の間は海で分断されていました。この海だった部分がフォッサマグナと呼ばれています。

 

フォッサマグナは、ドイツ人地質学者のハイリッヒ・エドムント・ナウマン先生が最初に提唱した地質学的な大構造のことです。ナウマン先生は日本の地質学の発展に貢献されており、ナウマンゾウの名前の由来になったことでも有名です。ナウマン先生が日本にやってきて間もなく1875(明治8)年の地質調査旅行の際に、長野県を訪れ、その地形からフォッサマグナの着想を得ます。フォッサマグナ(Fossa Magna)はラテン語で、フォッサは「くぼみ(地溝)」、マグナは「大きな」という意味です。長野県を中心とするフォッサマグナと呼ばれる地帯には2,000万年前よりも新しい時代の地層が分布しており、深いところでは6,000mもの厚さで堆積しています。ところが周囲には2,000万年前よりも古い時代の地層が分布していて、3,000m級の北アルプスなどの山岳地域を形成しています。フォッサマグナの西端が糸魚川―静岡構造線です。よく混同されることがありますが、フォッサマグナは面を表すのに対し、糸魚川―静岡構造線は西の端を線で表しています。東の端ははっきりしていません。

 

八ヶ岳より北の地域は北部フォッサマグナと呼んでいます。この地域には1,500万年前よりも新しい時代の地層が分布しています。長野県の上田、松本から長野市にかけての地域に分布する地層は古い時代から守屋層、内村層、別所層、青木層、小川層、柵層、猿丸層、豊野層という名前で呼ばれています。これらのうち、守屋層と呼ばれる1,500万年前の地層から、およそ300万年前にたまった柵層と呼ばれる地層までが海底でたまってできたものです。これらの地層はれきや砂や泥、あるいは海底火山の噴出物からできています。上田地域に分布している内村層や別所層と呼ばれる地層は真っ黒な泥岩からなっています。このような泥岩は、波の影響がほとんどない深海にたまってできたものです。青木層や小川層と呼ばれる地層のたまる時代になると、砂岩と泥岩が交互に見られるようになり、徐々に海が浅くなっていく様子を読み解ることができます。柵層はおよそ500万年前から300万年前の浅い海の環境を示す地層です。この地層からは貝の化石をはじめ、サメの歯やダイカイギュウといった海洋に生息する生き物の化石が発見されています。現在、1,904mの標高を持つ戸隠山一帯にもこの時代の地層が分布しています。

 

およそ100万年前には、陸地からの堆積物の供給に加えて、大地の隆起を伴う地殻変動が起こり、陸地となりました。その後、斑尾山や飯縄山、黒姫山の火山活動が起こり、現在の地形を作っています。

 

犀川や裾花川沿いでは海だったころの地層を現在でも観察することができます。これらの地層が大地の生い立ちを物語る貴重な証拠となっています。

 

第2講 8月6日(火) 15時

信濃町総合会館

 

米海軍電報綴から見たフィリピン沖海戦

 

元朝日新聞記者  渡辺圭司

 

フィリピン沖海戦とは1944年10月23日から四昼夜にわたって日米両海軍がフィリピン周辺の海域で戦闘を交えた海戦をいいます。太平洋戦争が始まって2年10ヶ月。米軍は日本の防衛戦を押し込んで、フィリピン・ルソン島に上陸を始めました。フィリピンが米軍の下に落ちますと、日本の南方からの輸送路が断ち切られます。

 大本営は日本の死活に関わる重大事と判断しまして、米軍の物資搬入を阻止しようと捷一号作戦を発動しました。上陸地点への殴り込み作戦が日本側の基本構想です。

 繰り広げられた海戦にはいろいろな形がありました。潜水艦戦、海空戦、咄嗟会敵、水上艦艇の砲撃戦、追撃、避退、誘致戦術、特攻戦術などが4日連続という長い時間をかけて起こりました。戦場は南北約2000㌔、東西約1800㌔という日本列島がすっぽり収まるほどの広大な海域でした。

 フィリピン沖海戦については、多くの体験記、研究書が日米双方で出されています。日本の防衛大学やアメリカの海軍士官学校では、人類最後の、と言っていいだろうと思える大海戦、フィリピン沖海戦について教材として微に入り細に入り教えられています。勝敗を超えて、日本人とは何者か、を究極の場で問いかけてくる人間ドラマがこの大海戦にはあります。

 今日、私がお話させていただくフィリピン沖海戦は、私が集めたオリジナルの資料に基づきます。一次資料に触れることで戦場の音、臭いを感じ、戦場に立った人々に少しでも近づけたら、と思っています。

 用意しました資料は「米合衆国太平洋艦隊第3艦隊活動報告-期間1944年10月23日~26日」です。第三艦隊司令長官ハルゼー大将の総括と、部隊、艦、飛行機との間の無線連絡を時間系列に記録した電報文です。

 もう一つは米海軍歴史センター所蔵の写真資料です。

 「Action Report(活動報告)」は2002(平成14)年2月、私がワシントンD.Cのナショナル・アーカイブでコピーしてきました。写真資料は同じワシントンD.Cのアメリカ海軍歴史センターで複写してきました。

 最初にご紹介する資料は米潜水艦DarterとDaceによる日本艦隊発見の第1報と続報です。電報綴はこの第1報から始まります。

 第一遊撃部隊栗田艦隊がブルネイを出撃して13時間後の未明のことです。

 宛先はCTF71。潜水艦艦隊の71任務部隊(Task Force)司令官宛ということです。

 DarterはDaceと2隻で哨戒線を張り、そこへ栗田艦隊があらわれました。以後、5時間半にわたって追跡し、6時半すぎ、Darterは6本の魚雷を、Daceは4本の魚雷を発射。重巡愛宕、摩耶を撃沈し、重巡高雄にも命中し、落伍させました。

 愛宕は旗艦でしたので栗田健男司令長官は1度、泳いで駆逐艦経由、大和に移乗し、旗艦を変更します。大作戦の途上で奇襲に遭い、今後の動きに陰に陽に影響を及ぼします。

 一連の電文の中で興味を引く表現があります。

 Daceの電文に2 columns heavy ships led and flanked by lesser.があります。

2隻の円柱状の大艦を小艦艇が前後左右を囲んでいる、と訳したらよいのでしょうか。

2columnsは大和と武蔵を指すのでしょう。海面から大和の艦橋まで高さ40mですから、潜水艦の潜望鏡からは10階建てビルが渡ってくるように見えたのでしょう。

 潜水艦の発見電報によって第三艦隊は布陣の確認と偵察の強化を次々と指示します。

38.2任務群は空母5隻を擁する大部隊ですが、ダーター1報から6時間後に対応を報告。給油後に24日午前6時、サン・ベルナルディノ海峡に張り付く▽明け方から西方、コロン湾の偵察を強化する…など次々と出す指示が生々しく電文に記載されています。

 日本の作戦は3方向から進出し、米軍を誘い出し、そのすき間を主力の栗田艦隊が進出して上陸地点に殴り込みをかける内容でした。そして、成功したのです。が、殴り込み寸前に栗田艦隊は反転します。世上、有名な「謎の反転」です。

 この間の米海軍側の事情を米海軍第三艦隊ハルゼー司令長官は「Action Report」で総括しています。私の拙い翻訳ですが、概要、以下の通りです。

14 3部隊との接触報告から奇妙な点が明らかになった。全ての部隊がゆっくりとした速度で進み、地理的な場所と時間が前もって決まっていると推測された。この動きが示していることは、日本の計画は注意深く冷静に協同的で、その一致する日付は早くて25日とみられた。

17 中央部隊(栗田艦隊)は前進を続けたが、第三艦隊司令長官は、この敵艦隊は帝国司令官が前進もしくは全滅の命令に盲目的に従っているに違いない、と判断した。敵艦隊は魚雷、爆弾の命中を受け、甲板上は被害、火災、損害を出していた。日本軍に対する長い経験、一度決めた計画は続けること、計画に不都合が起きても修正する能力がないことから第三艦隊司令長官は以前から先制攻撃策を採っていた。南方部隊(西村艦隊)と中央部隊は日中、島に囲まれた海域を進撃中、激しく絶え間なく空襲を受けていた。日本艦隊が容易に屈しないことは判っていた。第三艦隊司令官は、中央部隊がサン・ベルナルディノ海峡をよたよたと通り抜けてレイテ湾の部隊を攻撃する可能性も感じていた。ガダルカナルの時のように。

しかし第三艦隊司令長官は確信していた。中央部隊の被害は大きいので、目的を達することはできないだろう。一方、北方部隊(小沢空母機動部隊)の戦力は、第38高速空母機動部隊の240942電にあるように、新たなそして強力な脅威を形づくっていた。結論はこうだ。一刻も早く北方部隊(空母)を攻撃することが、敵の計画を打破し、主導権を握る為に必要である。

20  午後8時22分、38.2、38.3、38.4各任務部隊は、集合して、日の出攻撃をかけるために北方部隊に向かって夜間の突進をかける命令を受けた。

 

 フィリピン沖海戦のクライマックス、小沢艦隊の囮作戦にひっかかったハルゼーのブルズ・ラン(Bull`s Run)と呼ばれる第三艦隊の北上です。

 「一度決めたらやり抜く」という日本人の性格を知るハルゼーは先制攻撃をかけるため北上しました。結果、栗田艦隊の進撃を許しました。栗田艦隊の「やり抜く」という決意を軽視したためです。この日本人の「やり抜く」が「プロジェクトが硬直化してもやり抜く」弊害をも産みだし、諫早干拓など社会問題を引き起こしています。日本人は現在も変わりません。

 がら空きとなったサン・ベルナルディノ海峡の東側を栗田艦隊が進み、米空母群に遭遇。砲撃戦が始まります。空母から救援を求める電報、最寄りの第七艦隊は前夜の西村艦隊迎撃で弾薬を使い果たし、燃料は枯渇、と悲痛な米側の電報が交錯します。

 そこで登場したのが、有名な「世界は知らんと欲す」電です。

 ハワイの太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将が第三艦隊宛に発した電報「Where is Task Force 34? The world wonders」です。「第34任務部隊はいずこに。世界は知らんと欲す」と訳しました。この電報を有名にした文言が「The world wonders」です。

 この文言は1854年のクリミヤ戦争、バラクラヴァの戦いをうたったテニスンの詩「軽騎兵の突撃」にあり、英米人は幼少のころから馴染みのある詩だそうです。

私は1週間前、大学村主催の「暮らしの森シンポジウム」に出席いただいたC.W.ニコルさんに「The world wonders」は英米人ならみんな知っている言葉かどうかを聞きました。返答は「もちろんだよ。小学校で教えられる」とのことでした。ニコルさんは英ウェールズ地方の古い小学校で学びました。

 「バラクラヴァの戦い」は英陸軍の騎兵隊が無能な指揮官のもとロシア軍に突撃し、惨敗した戦いです。この電報を受け取ったハルゼーは「自分を無能者呼ばわりにした」と屈辱感を味わったことでしょう。

 しかも、この電報が発せられた10月25日は、90年前の「バラクラヴァの戦い」と同じ日付でしたから、屈辱感は倍加したことでしょう。

 最近の5年間で日本の政治状況は戦争ができる方向に進んでいるように見えます。「秘密」と「低投票率」で国民の政治参加は意図的に遠ざけられ、無関心層を分厚くしています。

 「平和」を訴えることはもちろん大事ですが、今、ここで「戦争」を知るために、実際の資料に目を通す作業は決して無駄ではない、と思います。

 

第3講 8月8日(木) 15時

信濃町総合会館

 

音のビタミン~ハイパーソニック・エフェクト

 

国立研究開発法人 国立精神・神経医療研究センター 神経研究所

疾病研究第7部 部長  本田 学 

 

 人間の健康を脅かす環境破壊には様々な種類があります。例えば公害やアスベストなどの問題は、環境が有害な物質によって汚染されることにより健康被害を引き起こすものであり、これらは物質環境の問題と捉えることができます。一方、例えば放射線被曝の問題は、放射性同位体から放出される高エネルギーの電離放射線がもつ細胞毒性が健康被害に深刻な影響を及ぼすものであり、これはエネルギー環境の問題と捉えることができます。これまで、環境の安全性や健康への影響を評価するときには、これら「物質」と「エネルギー」という尺度が用いられてきました。しかし、脳と心の健康という視点から環境問題を考えるとき、環境を物質とエネルギーの二次元で捉えるのでは不十分なのではないか、という問題意識が1980年ころから急速に芽生えることになりました。そのきっかけとなったのが、筑波病、すなわち筑波研究学園都市で発生した研究者の自殺の多発といった病理現象です。この現象が筑波という地域環境と密接な関係をもって発生するという点に着目すると、公害などと同じように環境問題として捉えられます。しかし、物質とエネルギーという切り口だけで環境を評価する当時の環境科学の枠組みの中では、この病理現象の原因に迫ることはできませんでした。こうした問題意識から、当時、筑波大学の大橋力先生らが中心となって、環境を捉える尺度として、従来の「物質」と「エネルギー」に新しく「情報」という尺度を加えた三つの次元で環境を捉える「情報環境学」という枠組みが体系化されたのです。

 

 脳では、化学反応によって情報処理が行われています。つまり、五感を介して脳に入力される情報は、究極的には脳の特定の部位に特定の化学物質を投与したのと同じ反応を引き起こすわけです。つまり、脳の中では「物質・エネルギー」と「情報」が同じ意味を持っているということができます。ところが、環境の安全性に対する取り組みをみてみると、物質・エネルギー環境と情報環境との間に大きな差が見られます。たとえば、物質環境が健康に及ぼす影響は、有害物質(あってはならないもの)と必須栄養(なくてはならないもの)が厳密に数値で定められているのに対して、情報環境が健康及ぼす影響については、圧倒的に立ち後れています。特に、なくてはならない情報=必須情報は、検討すらされていないに等しいと言えます。つまり、物質・エネルギー環境に比較して情報環境の安全・安心・健康対策は、科学的検討、社会的関心、倫理的対応のいずれもが極めて、まだまだ不十分な段階にあると言えます。

 

 こうした背景のもと私たちは、脳における情報処理に着目して、情報環境を人間が生きていくのに適したものに改善することによって、脳と心の病にアプローチする新しい治療法として「情報環境医療」を提唱しています。そして、その実現に向けた具体的アプローチとして、物質世界のビタミンと同じように、情報世界にも生存に欠かすことのできない必須情報、つまり「情報のビタミン」が存在するのではないかと考えて、人間が生きていくために必要であるにもかかわらず、現代都市に不足している情報を探してみました。その結果、人類の進化のゆりかごとなった熱帯雨林の自然環境の中には、人間の耳では音として感じることのできない高い周波数の音の成分が満ちあふれているのに対して、都市の人工的な環境の中にはほとんど含まれないことを発見しました。さらに、こうした高い周波数成分を含んだ音は、健康の脳機能と美と快感の脳機能を一緒に高めることを解明し、ハイパーソニック・エフェクトと名付けました。ハイパーソニック・エフェクトは、まるでビタミンのように、私たちが健康を維持するうえで欠かせないものである可能性が濃厚です。

 

 そこで、人間の耳に聞こえない超高周波成分を豊富に含む熱帯雨林の自然環境音を認知症の患者さまに4週間聴いていただいたところ、約半数で興奮や不穏・徘徊といった行動・心理症状の改善が認められました。しかも、患者さまの介護にあたっている介護士さんの3分の2がストレスが減ったことを自覚されました。

 

 さらに、自然環境音を聴かせながらマウスを飼育すると、平均寿命が最大17%延長することを世界で初めて明らかにしました。また、自然環境音を聴かせながら育てたマウスは、聴かせずに育てたマウスよりも、早死にしないことがわかりました。つまり、音環境を豊かにすることによって、マウス同士の緊張関係が和らぎ、攻撃やいじめなどによるストレスが減ることで、皆が仲良く元気に長生きする状態になった可能性が考えられます。

 

 こうした情報環境の側面から脳の健康に迫る「情報環境医療」の新しいアプローチが、現代人の脳の健康維持に繋がることを願って研究を続けています。


第37回 2018年 やまなみ大学

第1講 8月1日(水)15時

信濃町公民館野尻湖支館

 

日本の「森林(もり)」は、今

京都大学名誉教授農博 竹内典之

 

 森林(もり)は、適度の温度と降水に恵まれた地域のみに生育します。このような条件に恵まれた土地は地球上の陸地面積約147億haの42%にあたる約62億haと推計されています。これらのうちの22億ha(35%)は、人類が発展するにしたがって田畑や牧草地などの農業用地や宅地・工場用地などに変えられ、地球上の陸地面積のうち森林(もり)が占める割合は今では30%に過ぎません。陸地面積は地球表面積の1/3ですから、森林面積は地球表面積の1割に過ぎません。このわずか1割に過ぎない森林(もり)に、地球上の有機物の9割があるといわれています。つまり「森林(もり)は、多量の炭素(C)を貯留していることになります。したがって、森林(もり)が、みすぼらしくなったり少なくなったりすると、二酸化炭素(CO2)やメタンガス(CH4)など地球温暖化ガスが大気中に大量に放出されて、地球環境の悪化の原因になります。

 日本は、温暖で多雨なモンスーン気候帯に属するため適度の温度と適量の降水に恵まれ、植物の生育に適し、森林(もり)が良く発達します。北海道や中部山岳地帯の高山地など気温が低すぎるところを除けば、人為などによる過度の破壊を受けなければほぼ全域で森林(もり)が発達します。北海道や中部地方などの内陸部などは、冬には寒さが厳しいですが、夏には気温が上がって植物が盛んに成長します。

 日本は、ユーラシア大陸の東縁部に位置し、日本海を隔てて大陸とほぼ平行に連なる南北約3000kmにおよぶ弧状列島です。美しいサンゴ礁の南の浜辺から、流氷が訪れる北の浜辺まで、南から北に向かって気温差があり、気温に応じて、

 ① アコウやガジュマルなどの亜熱帯常緑広葉樹林

 ② タブ・シイ類、カシ類などの暖温帯常緑広葉樹林

 ③ 広葉樹にモミ、ツガなどの針葉樹が混じる中間温帯針広混交林

 ④ ブナやミズナラなどの冷温帯落葉広葉樹林

 ⑤ 冷温帯落葉広葉樹にトドマツ、エゾマツなど針葉樹が混じる北方針広混交林

 ⑥ トドマツ、エゾマツなどの亜寒帯針葉樹林

など、多様な森がみられます。

 また、日本は多様な樹木、多様な植物に恵まれた国でもあります。地球上の他の同緯度地域に比べると植物の種が多く、木本種だけでも1200種以上に及ぶといわれています。森林の発達が良好なうえに、

 ① 中部山地などは現生植物群が発展してきた第三紀以降一度も海に沈むことなく、起源の古い植物を現在に伝えている、

 ② 日本海によってユーラシア大陸から隔離されていたため、繰り返し襲った氷河期にも植物相が壊滅的な打撃を受けることがなかった、

 ③ 氷河期の乾燥寒冷な気候下で北方系や乾燥系の植物群がもたらされ、暖地系の植物も寒さに適応して新しい亜高山植物や高山植物が生れた。

 ④ 日本の地質、地形は複雑で変化に富み、多くの植物が生息の場を確保できた、

などにより、国土が極めて狭いにもかかわらず、多様な植物種に恵まれ、多様な植物種による多様な生態系が維持されてきました。

 日本は、まさしく「森林(もり)の国」であり、21世紀の現在も国土の67%を森林が占めています。日本における陸上の最大の自然資源は、森林(もり)です。日本人は、常に身の回りにあった森林(もり)からエネルギー源としての薪炭材、建築資材、山菜や果実などの食糧、有機物肥料など日常生活や産業に必要なものを得てきました。森林(もり)は、日本人の活力の源でした。しかし、戦後の燃料革命や肥料革命、木材の代替材の普及などによって我が国の森林(もり)の経済的価値は低下し、林業も衰退してきました。しかし、1980年代以降、知床・白神・屋久島などの森林(もり)が、世界遺産に登録されるなど、環境資源としての価値が見直されるようになってきました。

 近年、森林(もり)に対する国民の強い要請は「緑と水」にとどまらず、原発事故による「再生可能エネルギー」への期待の高まりの中で木質バイオマスエネルギーが注目され、新たな資源としての期待も高まってきています。しかしながら、世界の過去の文明が木材資源の「使い過ぎ」によって滅びた愚行を、他にエネルギー資源の乏しい日本が絶対に犯してはなりません。森林(もり)が衰えると、川が暴れ、里が荒れ、海が痩せ衰えます。このような愚を繰り返さないためにも、森林の現況を詳細に把握し、手入れをし、「賢く使うこと」が必要です。

 過度に石油や石炭などに依存した文明には限界があり、地球環境問題の上からも、生態系を損ねないエネルギーや物質の利用による「持続可能な循環型社会」を創り出すことが世界の人々の願いとなってきています。今、人類には、発展途上社会から成熟社会への転換を求められています。われわれ日本人は、人口の減少や高齢化など大きな課題を背負っており、生き方そのものの価値観や社会のあり方を問い直す必要が高まり、森林(もり)との付き合い方も改めて考え直す時期に来ているのではないでしょうか。『森林(もり)とともに生きるのか?』、それとも『森林(もり)の外で生きるのか?』が問われているのです。

 

第2講 8月6日(月)15時

信濃町公民館野尻湖支館

 

一茶の江戸暮らし~化政文化の体現者~

一茶記念館 学芸員 渡辺 洋

 

 現在の信濃町、信州柏原で農民の子として生まれた俳人小林一茶(1763~1827)は、15歳で江戸へ奉公に出たのち人気俳人へと成長し、50歳で帰郷。晩年を柏原で過ごし、65歳で没しました。

 一昨年、今回の講演と同名の企画展を一茶記念館で開催しました。その際私は一茶37歳~50歳の江戸在住期(寛政12年~文化9年)の動向を日記から拾い上げ、江戸における一茶の訪問地、交流した人物などをデータ化すると共に、一茶の訪れた都内およそ30カ所を巡り歩きました。

今回の講演では、この時得た一茶の動向に関する知見に加えて、江戸時代の経済発展という視点からも、俳人一茶が生まれた背景を探りました。

 

江戸暮らしが一茶に与えた影響

 一茶は江戸在住期に、現在も知られる個性的な作風「一茶風」を確立していますが、これは当時江戸の三大家と呼ばれた俳壇の重鎮を筆頭とする有力俳人たちと親交を深め、切磋琢磨したなかで生まれた物です。俳諧師を相撲の力士になぞらえた「俳人番付」を見ると、一茶はこの時期に最上段まで番付を駆け上がっており、人気・実力を獲得したことが判ります。

庶民文化を育んだ経済発展

 現代日本人は、教科書や時代劇の影響で、江戸時代は鎖国による平和と引き替えに、社会の進歩が停滞し、西洋列強に後れを取ってしまったとイメージしていますが、実際には、江戸時代の間に、我が国の人口は2倍に、GDPは3倍に成長したと推計されています。産業革命により飛躍的に国力を増した西欧諸国とは比ぶべくもありませんが、植民地化され衰退してしまったインドや中国と対照的で、一貫した経済成長が続いていたのです。

 江戸時代の文化は、こうした経済指標の通りに進展がみられます。江戸時代前期に生まれた「元禄文化」は、当時の先進地帯だった上方(京都・大阪)で興りました。江戸時代の京都・大坂の人口はそれぞれおよそ30~40万人、それに対して江戸の人口は50万人の武士と、それと同数以上の町人合わせて100万人以上と見積もられています。そのため江戸の都市機能が整ってきた天明期頃(1781~)から、圧倒的な人口を擁する江戸が経済・文化発展の中心になりました。こうして、江戸時代の後期には、江戸を中心に「化政文化」が花開くこととなったのです。

 また、情報伝達手段である「出版」の発達も文化の発展には欠かせません。商業出版もまた、江戸時代初期に京都で始まり、天明期に中心が江戸へ移行、そして、一茶の活躍した文化・文政期に全国的な出版流通網が整っています。

一茶が暮らした江戸の町

 一茶はまめに日記を書き残しているので、日々何をしていたのかをかなり細かく知ることができます。一茶がよく訪れたのは、両国橋、浅草、上野などの「盛り場」と呼ばれる当時の繁華街や、開帳場として賑わった寺社仏閣、歌舞伎見物も大好きでした。また、春は花見、夏は隅田川の花火、秋には紅葉狩りと、当時の庶民の楽しみをほとんど網羅しているといっても過言ではありません。一茶の動向からは、町の賑わいや、庶民がこぞって娯楽に興じる姿を見ることができ、庶民が豊かになり、文化が広く大衆まで浸透していたことが判ります。

まとめ

 中世まで、文化は上流階級のものでした。しかし、江戸時代の平和と経済発展によって庶民が豊かになり、文化の大衆化が進み、庶民出身の俳人一茶を生み出すに至りました。一茶を有名にした「一茶風」も、文化発展期の江戸での体験、一流俳人たちとの交流から生み出されたものです。また、出版流通網が整い、江戸発の文化が書物になって全国へと伝播したことで、一茶は帰郷に際して、江戸帰りの俳諧宗匠として信州で大歓迎を受ることができました。

 このように、一茶という存在は、まさに当時の文化状況を体現していると言えるでしょう。

 

第3講 8月10日(金)19時

信濃町公民館富士里支館

 

身近な星の話  

エコデザイン㈱技術顧問

D-11 石井 武

 

 今夏の夕暮れの空はとてもにぎやかです。水星を抱くように太陽が黒姫山の端に沈むと、「一番星みーつけた」の宵の明星が夕焼けの西の空高く輝きだします。乙女座のα星スピカが金星を追うように、それに引かれて木星が南の空高く輝き出します。さそり座の心臓アンタレスの赤い瞬きを挟んで土星が南東の空に昇ってきます。さらに地球に大接近したばかりの火星が暗くなった東の空に現れました。

 講演当日この時間は雨降りでこの見事な天体ショーは見られませんでした。その代わりにスライドの中では、北信五岳のシルエットを背景に、可憐な乙女がこれらの星々の回転を指さしながら一晩中眺め、宇宙に想いを馳せていました。 

 金星や水星が太陽の左に行ったり右に行ったりしながら黄道十二宮を巡るのは、惑星が地球の三百六十五日とは異なる周期で太陽を中心に回っているからです。でもどうして太陽に落ち込まないで安定して回り続けるのか。当たり前のように思っていますが不思議です。月も地球の周りを安定して回っています。

 これは身近な惑星の世界に限りません。宇宙の始まりなどの大爆発で星の元となる物質が勢いよく生まれました。それらの物質はお互いに「万有引力」で引き合っています。一方、物質は生まれた時に獲得した勢いを速度や方向を変えまいとする「慣性の法則」に従って今でも持ち続けています。この二つのことが絡み合って生じる「遠心力」と「引力」が丁度良く釣り合った者同志が、お互いに落ち込まないで回り続けているのです。このため、近くにいた物質は互いに集合し、宇宙には物質が密なところと疎らなところの「ゆらぎ」ができ始め、それが段々と大きくなり泡構造と言われる今の姿に発展してきたのです。

 宇宙には、普段当たり前と思っていることでも、とても不思議ことがまだまだあります。

その一つは、惑星が星座の間を動く様子を見ていると、ある時動く方向が逆になり、しばらくするとまた元の方向に戻ります。宇宙は地球を中心に回っていると信じられていた二世紀の頃、ギリシャの学者トレミーは、この惑星の動きを説明するための複雑な仕組みを考えました。でもこれには相当な無理がありました。十六世紀に、ポーランドの天文学者コペルニクスは、それまで蓄えられてきた膨大なデータを基に、実は太陽を中心に惑星が回っているのではないかと提案しました。これによって、金星が宵の明星や明けの明星と変わることや、惑星が見せる空での複雑な振る舞いをとても説明し易くなりました。

 今では誰でも惑星が皆太陽を中心に回っていることを疑う人はいません。でも地球を中心に置いて見ると、この図のように複雑な動きをしています。実はこれは、別々に動いているものをどちらの立場で見るかによって見え方が全く変わるという、身近に体験することと同じで不思議なことではないのです。でもこれらのどちらの姿も実際に見た人はいません。太陽系全体を一望できるほど遥か高い空に登った人はいないからです。

 今回、他にも宇宙の不思議を紹介しました。

その一つは、遠い星がなぜ見えるのか。これは、光は波ではなく、光量子と呼ばれる粒子だから、ということを説明しました。

もう一つは、地球の夜はなぜ暗いか。光の速度で端まで行くのに百四十億年も掛るとてつもなく大きな宇宙には、二千億個もの星を抱いた天の川銀河のような星雲が一千億個以上も満ちていて、皆とても明るい光を発しています。その真ん中にいる地球の夜はとても明るいはずなのです。それでも夜が暗いのは、①宇宙の大きさは無限ではない②光を吸収する物質が沢山ある③宇宙は膨張を続けている、等が理由であることを紹介しました。

 宇宙の誕生から進化について等で、第一線で活躍している天文学者にさえ解らないことがらがまだ沢山あるそうです。その学者達が、若い方々に是非挑戦して頂きたいと望んでいることを紹介しました。

 

図1の説明 

富士里支館の駐車場から撮影した眺望をもとにシルエットとして絵にしました。

図2の説明

理科年表(国立天文台編)の惑星表のデータを用いて、楕円の公式やケプラーの法則を基に計算した太陽を原点とする惑星の位置座標から地球の座標を差し引いて作りました。

 


第36回 2017年(平成29年) やまなみ大学

8月3日(木) 

第1講座 「長野県は何故日本一の健康長寿県になれたのかーその基礎を築いた人ー」

田中一哉先生(国民健康保険中央顧問、川崎医療福祉大学客員教授、社会保障学)

 

 かれこれ二十年前、長野県の低医療費要因を研究したことがある。定量分析の結果「入院日数」の短さと「在宅死亡率」の高さであり、それらに一番影響を与えているのが「高齢者の就業率」の高さであった。その折、県下十二市町村でヒヤリング調査を行い、長野県は元気老人が多く、その背景には保健補導費等、住民ボランティアのそんざい、そしてその活動を支えた三人の人達の存在がわかった。

 健康長寿県、長野を語る時に忘れてはならない三人の人物についてお話しします。

 一人は吉沢国雄先生、現在の国保浅間総合病院の初代院長です。昭和三十四年恩師の指示で着任、四十四歳。以降、国保保健施設の設置目的である「地域医療」を実践。日本一の脳卒中多発地域であった長野県の成人病予防対策を確立。一方、市町村長、国保直診医師、市町村保健婦からなる「長野県国保地域医療推進協議会」を結成、県下地域医療体制を組織化、市町村保健婦の理論的支柱となり、住民ボランティア保健補導員組織の結成を呼びかけ、その自立発展に協力された。

 二人目は大峡身美代志さん。長野県保健補導員の生みの親であり、育ての親。昭和十九年五月旧高甫村(現須坂市)に東京より保健婦として着任、二十二歳。月に七足の下駄をはきつぶし、劣悪な状況の中で「衛生五悪」を追放(人間回復)し「おしどり会(受胎調節)」を指導(人命尊重)。“自分の健康は自分で守る”住民に育てた。その活動は県下に拡がり保健補導員は独り立ちしていった。

 三人目は若月俊一先生。昭和二十年三月、“医療の民主化”をやるべく、現在の佐久総合病院に着任、三十四歳。以来、農村医学を佐久の地から世界に発進されていかれた。特に“予防は治療に勝る”と始められた「八千穂村全村健康管理事業」は健康手帳、健康台帳を使った健康管理で実績を上げ、その後長野県下農協婦人部の参加を得て県下市町村へ健康管理事業を展開していった。

8月5日(土) 

第2講座 「開発途上国で無料化を実現したキューバ医療」

木村文平先生(日本キューバ科学技術交流委員会副会長・立川相互病院呼吸器外科部長)

 

 キューバはカリブ海の最大の島で、面積は本州の半分、人口は1100万人余りの国です。1997年にキューバ政府からの招聘を受けて2ヶ月間ハバナの病院に出かけ、肺の手術などに参加しました。当時はソ連消滅の影響があり、物資が非常に不足していましたが、キューバの医師の熱意と人の温さに感銘を受けたことや同国の医療体制に驚かされたことから、帰国後も交流を続けるようになりました。

 革命成功前からフィデル・カストロは教育と医療は国民全員が無料で平等に受けられることを掲げましたが、1959年の革命以後、新しく制定された憲法の第50条に国民の医療受療権を明記しました。革命後わずかの期間に当時6000名あまりいた医師のうち3000名が亡命しましたが、革命政府は既存の病院を教育機関に転換して医師を大量に養成し現在は8万7千名となっています。この人数は人口比では日本の3倍となっています。

 キューバの医療体制は家庭医、ポリクリニック、病院というネットワークを形成しています。家庭医は全国100%に配置され、地域では一人当たり130−160家族を受け持ち、午前中は診療所で外来、午後は地域回りをして衛生状態や家族全体の健康管理を行います。診療所には簡単な診察器具しかありません。ポリクリニックは血液検査やレントゲン検査、内視鏡検査や歯科を併設し、入院施設はありませんが救急ベッドがあり患者への応急の対処が可能です。一晩治療して必要であれば病院に送ることになりますが、ここでまず対処するので病院の混雑は軽くなります。また、ポリクリニックには病院の専門医や家庭医が診療単位を持って、相互に連携が可能となっており、若い家庭医や医学生の教育も行っています。医療は全て無料で、入院費などもありません。薬は購入しますが安価に設定されています。キューバ医療は疾病予防に重点を置いています。周産期死亡は非常に減少し、年間1000人あたり4.0人(日本2.0人、米国5.6人:2015年)と米国を上回っています。バイオテクノロジーに重点を置き、自前で薬剤の開発を行っていましてワクチンなどは輸出もされています。ワクチンは無料で接種され、髄膜炎など9つの感染症はキューバ国内で根絶されたとのことです。平均寿命は2014年79.4歳で米国78.9歳よりも高くなっています。キューバは国際交流を積極的に行っており、中南米やアフリカを中心に医療過疎地に医師を派遣したり、自然災害が発生した場合に医療団を派遣しています。エボラ熱流行時の医師派遣は記憶に新しいところです。また、「奇跡計画」と名付けてアテンアメリカを中心に白内障の治療を無料で行っています。故チャベス大統領と協議の上ですべてキューバの負担で2004年から開始、2014年には200万人の患者を治療したということです。こうした海外への医師や医療技術者の派遣は外貨獲得のうちの55%を占めており、最も重要な手段になっています。

 キューバの医療は公衆衛生的なアプローチで成果を上げる一方で、経済的な困難のため新しい医療機器や技術の導入は遅れています。医療供給システムに国民の支持は強いのですが、今後どう持続させるかが課題になってきそうです。 私は日本キューバ科学技術交流委員会の橋渡しで出かけましたが、視察に出かけた時に仲良くなったキューバ人の医師に提案して両国合同の講演会を企画し、2009年から上記の委員会の主催で開始しました。キューバ側にも同名の委員会が組織されています。2016年には第5回の講演会を開催して肺癌の画像診断と睡眠時無呼吸症候群に関しての講演を行いましたが、日本の医療技術への関心は高いものがあります。また、キューバは物がなくて生活は大変だと思いますが、病気になっても経済的な心配がないことも影響しているのか、屈託がなくて明るい人が多い印象があります。付き合うと気持ちの良い人が多く、今後とも交流を続けていきたいと思っています。

8月7日(月) 

第3講座 「石器時代に運ばれてきた黒曜石」

渡辺哲也先生(野尻湖ナウマンゾウ博物館学芸員)

 

 

 野尻湖周辺には石器時代の遺跡がたくさんあり、これらの遺跡からは黒曜石製の石器が見つかります。この周辺の自然の中で、岩石としての黒曜石が採れる場所はないことから、遺跡から出土する石器は遠くから運ばれてきたものといえます。黒曜石は近年、科学的な分析をすることで詳しい産地を特定できるようになりました。ここでは、黒曜石の分析からわかってきた石器時代の人々の行動について紹介をします。

野尻湖遺跡群

 日本の歴史の中でもっとも古い時代は「旧石器時代」とよばれます。土器がつくられはじめるおよそ15,000年前の縄文時代よりも古い時代ということで、「先土器時代」とよぶ人もいますし、この時代の石器が国内で最初に確認された遺跡にちなみ「岩宿時代」とよぶ人もいます。ここでは旧石器時代と新石器時代(縄文時代)の石器を扱いますので、表題では両者を含めた石器時代としています。

 野尻湖の西から南にかけて連なる丘陵上には旧石器時代から縄文時代草創期の遺跡が密集していて、このまとまりは野尻湖遺跡群とよばれています。40の遺跡があり、国内でも有数のこの時代の遺跡密集地として研究者には広く知られています。ではなぜこの時代の遺跡が多いのでしょう。やはり野尻湖があるからだと考えられます。野尻湖はおよそ7万年前にできた古い湖で、野尻湖の水を求めて集まる多くの動物がいて、それを追って人々もやって来たと思われます。当時は人々が狩猟と採集をしながら移動する時代で、1年の生活サイクルの中で一定の期間、野尻湖で狩りをおこない、その人々がキャンプをした場所が遺跡となって残ったと考えられます。

 野尻湖遺跡群の発掘調査

 遺跡は埋蔵文化財とよばれますが、これは文化財保護法によって保護されていて、土木工事等によって遺跡が破壊されることになった場合には、事前に発掘調査が実施されます。上信越自動車道の建設の際、そのルートは見事に旧石器時代の遺跡が分布する丘陵上を貫いたため、1993年から2002年にかけ、大規模な発掘調査がおこなわれました。出土した石器が重要文化財に指定された日向林B遺跡をはじめ、仲町遺跡、貫ノ木遺跡など13遺跡が発掘され、約10万点の旧石器時代の遺物が出土し、この中には黒曜石製の石器も含まれていて、15,900点という大量の黒曜石製石器を化学分析するという画期的なことがおこなわれました。その分析よって今まで見えなかった人の動きが推定できるようになったのです。

 黒曜石と化学分析

 金属の刃物が出現する前、ガラスのように割れる石を素材とした石器が刃物として使われました。黒曜石は黒色の天然ガラスの岩石で、透明感があってキラキラと光り、割れ口が鋭くて切れ味の良い刃物として使えることから、石器の材料としては最高の素材と考えられていたと思われます。黒曜石は火山岩の一種で、火山活動によって地下から上がってきたマグマが地表近くで急速に冷却されるなどしてできたものです。黒曜石が採れるところ(原産地)は限られていて、その代表的な産地は北海道では白滝、本州では和田峠や八ヶ岳、九州では腰岳、離島では神津島や隠岐島が知られています。特に諏訪湖の北東部の霧ケ峰高原から八ヶ岳の一帯は本州最大規模の黒曜石原産地帯です。近年、蛍光X線分析という方法で、出土した石器がどこの産地の黒曜石なのかを細かく推定できるようになりました。

 原産地と消費地

 野尻湖は黒曜石の原産地から直線距離で80kmも離れていますから、石器を使う場所、つまり消費地です。野尻湖遺跡群で消費された黒曜石は分析結果から、その99%が信州産であることがわかりました。信州産黒曜石を地域によって大きく3つに分けると、和田峠、諏訪、八ヶ岳となりますが、和田峠産が約78%、諏訪産が約16%、八ヶ岳産が約5%で、野尻湖から出土する黒曜石の多くは和田峠周辺から来ていることがわかりました。また、旧石器時代を、およそ3万年前を境に前半と後半に分けたとき、前半は原産地の遺跡数が少なく、消費地で消費される黒曜石の量が多いのに対し、後半は原産地の遺跡数が多くなり、消費地で消費される黒曜石の量が少なくなる傾向があることがわかってきました。これは前半期では野尻湖まで原石を持って来て石器を製作しているのに対し、後半期は原産地で石器製作をおこない、消費地の野尻湖では簡単な加工しかしていなかったと考えられるのです。

 おわりに

 数万年の時を経た旧石器時代の遺跡からは骨や木などが見つかることがほとんどなく、石でできたものしか出土しないのが一般的です。つまり、研究材料は石だけなのです。化学分析によって産地推定ができるようになった黒曜石は、人々の動きを考える材料を新たに与えてくれました。今後の分析結果の蓄積により、石器時代の人々の暮らしがより具体的に復元できるようになることが期待されます。